教  育      H11.3

教え育てることは大事なことです。
胎教、幼児教育、学校義務教育(小、中)、高等教育(高、大)、社会人教育、更には学習塾、専門教育、趣味サークル、テレビ、雑誌、マスコミ、企業宣伝、講演、友交付き合い等教育を受ける機会に不自由はしません。
生物としての本能以外は、一連の知る機会に脳にメモリーされて、その後の判断の基準に成るとのことです。
何の為の教育か?・・その人が成人して幸せになる為に。
何が幸せか?・・人に喜ばれ自分も心地よくなること。
何が人に喜ばれるのか?・・人に役立つこと。
何が役立つことか?・・人から頼りにされること。

 その為に世間が見えかけた頃から、自ら選択して教育を受けて、結果、人から頼られる何かを持つべきです。ところが物心や分別がつく前から、自ら選択することなく一方的にテレビ漬、CM漬になっていないでしょうか。

本能の次に、親兄弟家族の情や関係を学び(最初の出会い)、子供同士の遊びや親戚の大人や近所の大人との交わりで、他人の情や仲間の機微、社会通念をインプットし社会の一員としての、その人なりの普通や善悪を判定する基礎が出来るように思います。その上に学校教育で知識を授かり、友達を選び、将来を考える力と希望をもち、自らの人生を設計すべきです。
テレビ番組の多くは、分別のつく視聴者を対象に制作されています。視聴者の事情に関係無く、一方的に視聴率を気にした、興味をそそるだけのスキャンダル、面白おかしいだけのドタバタ番組、驚きを誘うだけの悪行報道、現実でないデジタル映像が多く目に付きます。分別のつく視聴者ならそれなりの判断し評価も出来ますが、新鮮な脳には、普通でない事がまともな様にインプットされているのではないかと心配です。
 滑稽も、奇異も、驚きも、恐怖も、普通が理解出来てのことです。もし、その基本認識が無く、凶悪事件やめちゃくちゃな事象が認識されれば・・・・? 昨今、幼児犯罪、学級崩壊、怪奇犯罪、天職を求めない無気力青年を知ると豊かな教育環境なのに、初期認識が間違っている結果ではないかと思います。
 少し前まで、子供に悪い事は見せない聞かせないのが当たり前だったのに、親子共に無意識のうちにテレビに犯されているのではないでしょうか。
 ナンセンスなインプット(安易に認識されるが幸福の基とは言えない)や真偽の判らぬCMから解き放たれて、人から頼られる自分を創る為に自ら求めて学習すべきです。社会は、地域の特質や人の様々な個性を織り込みながら、多くの人の働き(職業)で形成されています。何の職業も必要不可欠です。何かで頼られるようにまず努力すべきです。

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