民 主 主 義 に 思 う

若城 光柾 2012,7,10

人それぞれが充実した生活を送っている事が、安定した平和の基本です。

人それぞれ(個人)は地域住民の一人、国民の一人、人類の一人です。

それらの民衆が充実した生涯を全うできるように、優先して生活環境に道筋をつける事を主体に事を行う、政策の主張が民主主義と思います。

それは地球上の全ての人々が対象でなければなりません。

「自業自得」を理解し「類は友を呼ぶ」の状況の下に、他を害する事なく自らの悠久の世間を作っている世界中の地域や集落の人それぞれが、充実した生活を送る為にです。

ただ大事なことは、人々それどれ、考え、生き様、充実感は違います。個人個人違いますが、少なくとも生活圏を共にする地域ごとの人々の生活文化、生活習慣、生活環境、その他あらゆる平穏に充実している状態と考えは、尊重されるべきです。他の異文化異習慣を尺度に云々すべきでなく、まして干渉や併合、侵略など、もってのほかです。

人類500万年の内、最近の5000年程前から、特権的文化が始まり、楽に便利にとの生活から、快楽、独善、エゴ、傲慢、覇権、侵略、の道をたどってきました。そして武力から権力、経済力、食糧制覇、エネルギー制覇、貨幣制覇から、今は知恵を働かせ、文明人先進国と称して、法治順法を唱えながら貨幣の合法賭博、搾取へと、お金の為にはなりふり構わずに世の中が渦巻いているように思います。何時の間にか渦にのまれ、あがいているうちに、それぞれの充実した生涯は遠のいていないでしょうか?

米や魚や果物を食して生活活力を支え、仲間や家族が協調して生活環境を守り、子供達が希望の未来を楽しませる、充実安定継続する、生活環境がそれぞれの地域の意思で過不足なく安定しなくてはなりません。

先進国?の豊かさの基準で、近代化と称して、すさまじい「」(武力、企業力、貨幣力、懐柔力)で、法規上や貨幣上うまく利害を解決していても、実態として不平等や搾取のために庶民が悲惨な目に合っている実態が世界中に増してきているようにも感じます。先進国?が悲惨な状態を引き起こしながら、他の先進国?が困窮を援助すべく介入し、地域の人々にそぐわない複雑な状況の悪循環を呈しているようにも思います。そこには、民主主義の声のうちに、安易な利便と貨幣の渦にのまれた多くの民衆の目先の事を求めた人や、多くの貨幣を動かせる業界の代表の人で政治が操られ、本来の政治がなされていないのではと危惧いたします。

政治は民衆が行う事では決してありません。政治は政治のプロフェッショナルが「民衆の充実した生活の為に」行うべきです

政治家の導きで人の生活実態は大きく変わります。単なる知名度のある人や利権に連なる人が政治に関係している限り、個人の充実感は程遠く思います。

内政、外交、教育、経済、福祉、規範、情報、科学、・・等、の基本的な見識を、先ずは政治的観点からバランスよく心得た政治のプロが選ばれる方策を考えて早急に実施されなければ、庶民は政治のプロフェッショナルを選ぶのは難しく思います。



気  持  ち ( 宗 教 )

若城 光柾2004.7.2

 人間は思考する能力を以ってして生息しています。思考する能力は、思い、知恵、意識、欲、感覚、恋愛、憎悪、心配、恐怖、憤慨、記憶、思想、希望、落胆・・・等、自分の脳細胞の働きを駆使して意思決定をしています。

 そして、その脳が活躍して間違いの少ない決定を導く為に、人は学習し情報を蓄積しています。意思決定に当たり確かな情報を多く持っていれば、即座に簡単に答えが出せます。自分の脳に情報を持っていなければ、辞書を見たり、他人に聞いたり、いろいろ検索し答えを得るように努力します。それが自分の勉強になり、さらに情報が増します。

 しかし、世の中には何とも理解し難い現象を体験する事や、未知の事象、未解決の問題等も多く有ります。そして、全く理解し難い事は「神仏」のみが知る事として解決してしまう事も多々あります。

 しかし、「神仏」からは何も事を起こす事や影響を与える事は有りません。人の思考の状況を、神仏の成せる事の様に錯誤する事により、擬似的に納得する事です。すなわち人が思い、考え、願う力の影響が「神仏」のパワーなのです。

 自分が願う幸福の力が神仏の力です。自分のやましい気持ちが神仏からの反省を求める力です。願う力が自己治癒力となり、自己活性化に繋がるのです。自分の願いをぶつけて、感覚を確認、増幅する為に「神仏」を対峙させて己を反映しているのです。

 したがって、「神仏」から何かをする事は有りません。神罰が降るとか罰が当る、地獄に落ちる等は、人の道を説くに当たり、教育的思考として存在しており、人の道からはずれた所業の因果からの、「己の反映」であると思います。

 神仏は基本的に人々が生活するに当たり、太陽や、水、森、大地等その地域に於いて崇め大切に護る対象であった様に思われます。苛酷な自然の下に人々が平穏に幸福に生活できる様にとの願いで、神仏を崇め、祭ってきたのだと思います。

 差別化や支配の発展の過程で、人の信仰心を利用したシステムが数多く創られています。人々の協調的団結、人間性の向上、平和互恵幸福の増強につながり、排他的にならず平穏な生活の向上につながれば何も問題ありません。しかし、確たる哲学を徹底出来ずに、我が教義こそ平和幸福への唯一の教えであると、戦争を繰り返し恨みや不幸を益々増大していても、幸福を!平和を!と叫んでいる信者《人々》がいるのは、滑稽な状況です。

 国をも動かす信仰心を組織的に操り、貨幣経済至上主義の下に欲望を駆り立て、未知なる事を巧妙に神仏に関連付け(真偽は誰にも判らない)【信じさせる者と信じる者だけが関連付けに関心があるのであって、本来何の関係も無く真偽を検討する対象にもならない事かも】をして、巨万の富を集めている集団もあります。

 もともと人間の思考する能力で、生活の平穏の為に人が考え出した「神仏」です。何千年の時を経て、貨幣至上主義の現在、貨幣の為に人心をコントロールするに十分な方策は有るようです。平和な日本では、「信仰の自由」のもとに、人心に立入っています。

 当人や家族、親戚、友達、同じ時代を共に生きる人々が、不幸になったり、不快感を持つような行為がなされない様にと、「神仏」にお願いしたく思います。